校祖の命日

2021.09.27 学園通信

 本日9月27日は、三田学園の校祖である小寺謙吉先生のご命日です。全校集会をリモートの形で、各教室で行いました。

 校長から話があり、最後に小寺先生のご遺徳を偲び、全員で黙祷を捧げました。

<校長の話>

 本日9月27日は、校祖小寺謙吉先生のご命日です。先生のエピソードを話したいと思います。

 先生は明治10年 (1877年) 旧三田藩士・小寺泰次郎氏の長男として神戸市中央区の小寺邸(現在の相楽園)にお生まれになりました。幼少の頃より、父・泰次郎氏から「一度決めたことは最後までやり遂げなさい」と言われ、育ちました。また、「人間の一生は長い。その間に金はあてにならない。今日巨万の富を持っていても、明日一文無しにならないとも限らない。たのむは、自分自身の体力と精神力である」ということを教えられていました。

 先生は20歳から10年間、欧米各国の大学で学ばれ、国際的視野にたって日本の将来を考える姿勢を身につけられました。帰国後は政治の世界で活躍され、31歳の若さで衆議院議員に当選され、その後、神戸市長も務められました。

 「国を興し、民生を豊かにするには 教育しかない」という信念、また「将来日本の運命を負荷するに足る人材を育成せん」という思いから、明治45年、三田の地に英国の名門イートン校をモデルとした三田中学校を設立されました。

 日露戦争が終息後の明治39年、先生は父・泰次郎氏の夢の1つであった満州での事業に乗り出し、「小寺洋行」という会社を設立されました。当時留学中であった先生に代わって、事業推進の中心となり会社を発展させたのは弟・小寺壮吉氏でした。事業は順調に拡大していき、米10キログラムが 1円17銭の時代で、取引額は最高年で当時の1億円にものぼる商いをしていました。しかし、第一次世界大戦後のパニックとロシア革命によるルーブル紙幣の大暴落により、銀行からの取引を停止され、小寺家は莫大な負債を抱えることになりました。銀行側は貸付の回収のため、三田中学の閉鎖を提案してきました。先生は「弟の借財は自分の借財も同じだから、その責任は持つ」が、三田中学の閉鎖については「自分の生命を賭した事業だから、これだけは断じて承服できない」と強い口調で言い切られました。その時代わりに売却されたのが、神戸の小寺邸(現在の相楽園)でした。

 本日は小寺謙吉先生のご命日です。小寺家の危機にあっても、三田学園だけは守ろうとされた思いを皆さんにも受け止めてもらいたいと思います。