三田学園の校祖、小寺謙吉先生のご命日にあたる9月27日(水)、全校朝礼を行いました。
松井校長先生から、次のようなお話がありました。
「今日、9月27日は校祖小寺謙吉先生の命日です。先生のエピソードをお話ししたいと思います。先生は父親泰次郎の長男として、1877年(明治10年)に神戸市の小寺邸(現在の相楽園)で生まれました。人の言うことを謙虚に受け入れる人になるようにと謙吉と名付けられたそうです。小寺先生は父泰次郎氏から「一度決めたことは最後までやり遂げなさい」また、「人間の一生は長い。その間にお金はあてにならない。今日巨万の富を持っていても、明日一文無しにならないとも限らない。頼りになるのは、自身の体力と意力である」と、厳しくしつけられたようです。
弟の壮吉氏が満州で経営していた会社小寺洋行が、世界情勢の悪化に伴い莫大な負債を抱えることになりました。小寺先生は弟の負債を肩代わりされました。その時、三田中学の閉校を提案されましたが、「この教育事業は自分の命を賭した事業だから、それは断じて承伏できない」ときっぱりと断られたそうです。その時、代わりに売却されたのが、神戸の小寺邸(現在の相楽園)でした。小寺家の危機にあっても三田学園は守られたのです。
小寺先生は、20歳から10年間、米国のコロンビア大学を皮切りに、ウィーン大学、ジュネーブ大学、英国のケンブリッジ大学など欧米各国で国際法を学ばれ、国際的視野で考える姿勢を身に付けられました。帰国後は、政治の世界で活躍され、31歳の若さで衆議院議員に当選。後に神戸市長も務められました。一方で「国を興し、人々を豊かにするには教育しかない」、「将来日本の運命を負荷するに足る人材を育成したい」との思いで、英国の名門イートン校をモデルとした三田中学校を設立されました。
また、小寺先生は無類の読書好きであったようです。小寺夫人の言葉ですが「謙吉の道楽と言えば、読書ぐらいでしょう。食事のときは食卓の上に、夜は枕元にと書物を離したことはありませんでした」ひたすら読書に明け暮れ、自宅の書斎には書物がいっぱいで足の踏み場もないくらいだったようです。
早稲田大学には小寺文庫があります。関東大震災で主要な大学図書館が焼失し、貴重な書物が失われたことを憂慮し、東大・早稲田大・慶応大・法政大・中央大等に蔵書の寄贈をされました。中でも早稲田大学には、小寺先生が大隈重信氏と親しかったこともあり、長年にわたり大量の洋書を送られています。早稲田大学では、その蔵書を「小寺文庫」と名付け、大切に保管されています。
小寺先生が最も好まれた言葉を紹介します。『人のお世話にならぬ様、人のお世話をする様、報いを求めぬ様』。人のお世話にならぬ様、とは、人に迷惑をかけずに自分ができることはきっちりと自分でしましょう、ということ。人のお世話をする様、とは、困っている人がいたら手を差し伸べましょう。周りへの心配り・気配りを意味しています。中学生、高校生のみなさんでも、それぞれ実践できることではないかと思います。一度自分の生活を振り返り、小寺先生への思いを馳せてもらえればと思います。」
最後に、小寺先生のご遺徳を偲び、小寺先生の銅像に向い全員で黙祷を捧げました。